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​雨のち虹色

「やまないなぁ」
ざあざあと降り続く雨に千鶴はぽつりと呟いた。つい先程までその姿を見せていた太陽は今ではもうすっかりなりを潜め、空を覆う灰色の雲とそこから注がれる大粒の水ばかりである。
 今日の天気予報は晴れのはずだった。しかし突然に雨は降りだし、傘を持ってきていなかった千鶴は下校のタイミングを逃し雨宿りにと図書室に来ているのである。
 出されていた宿題を全て終わらせて時間もそこそこに流れているのに、やはり雨が降りやむ気配はない。これといって特に用事もないが、こうどんよりと薄暗い外に千鶴の気持ちもなんだか沈んでいくように感じてしまっていた。
「はぁ……」
勉強道具を仕舞い、鞄は置いたまま席を立つ。そうして書架の方へと千鶴は向かった。まだ雨もやみそうにない。雨が止むまで本を読んでいようと思ったのだ。
 まるで迷宮のように並ぶ書架に千鶴はさっきとは違った溜息を吐いた。薄桜学園の図書館は他の学校よりも幾分も蔵書量が多いと、誰かに聞いた覚えがある。文武両道を掲げる学園長が生徒の学びのためにとあらゆる分野の本をおくようにと図書館の拡充を進めているからだった。
 けれども、こう本が多いとどれを選べばいいかわからない。千鶴は特に読書家ではないし、かといって文字を全く読まないわけではないが、それでも雑誌はともかく小説などは話題に上がるようなものぐらいしか読んだことはないのだ。
(どれにしようかな)
困ったように書架の間を往きながら、ふと彼が視界に入った。
 緑色のジャージ、茶っこい短髪に額を白いタオルで巻いている、彼。
「永倉先生……」
数学担当教諭で二年二組担任の永倉新八だった。その彼が書架に向かいながらひどく真剣な表情で手にしている本を読んでいた。
 永倉が手にしているのはハードカバーの本で、タイトルまではわからないが一目見るだけで気軽に読めるようなものではないことが容易に理解出来た。
(先生、本読んだりするんだ)
失礼だとは思うが、正直に言えば意外だった。千鶴の知る永倉は教科書かあるいはスポーツ新聞くらいしか読んでいるのを見たことがない。そうであるから、こうして永倉が読書に勤しんでいる姿というのがひどく新鮮だった。
「お、雪村君か」
千鶴に気づいて永倉が本から視線を移した。にかっと先程と打って変わっていつもの笑顔を見せてくれた。
「何か調べものか?」
「いえ、急に雨が降ってきてまだやみそうにないので宿題しようかなって思って」
そう答えると永倉はなるほどという表情を見せて苦笑する。
「あー、急に降ってきたもんな」
「先生は……読書ですか?」
そう訊くと永倉は右手の人差し指をそっと立てて言う。
「俺はちょっと息抜き。土方さんにゃ内緒な」
土方さん――鬼の教頭で知られる古文の先生である。聞いた話によると永倉と千鶴の担任である原田はこの土方と旧知の仲であるらしい。そうであるからか、反面教師的な部分を見せる永倉をよく土方が叱っているようで、その現場によく千鶴は居合わせることがあった。
 悪戯っぽく言う永倉にくすっと笑って千鶴は「はい」と答えた。
「何を読んでらっしゃるんですか?」
「俺がまだ学生の頃に読んだことがある本でよ。懐かしくなってつい読み耽っちまった」
そう言う永倉のその表情は何処か楽しそうで、まるで同年代の少年のような笑顔だった。
「雨、やまないですね」
永倉の笑顔にドキリとして、千鶴は内心慌てたように話題を窓の外に振った。
「雪村君は雨は嫌いか?」
その問いかけに千鶴は少し考えてから答えた。
「あまり好きでは、ないです」
嘘は言っていない。まだ昼なのに薄暗くて落ち込んだ気持ちになるし、せっかく洗濯をしてもお日様に当てて乾かすことも出来ない。道路に溜まった水たまりを走った車が傍にいた時などは最悪だ。防ぎきれなくてただでさえ肩などが濡れやすいのに汚れた水をもろにかぶってしまう。
 そんな雨の日が千鶴はあまり好きではない。
「そっか。俺は嫌いじゃないぜ」
穏やかに永倉が言う。
「そりゃ空気はどんよりしてるし、次の日のレースは重馬場になっちまうこともあるけどよ。でも雨には雨の過ごし方があるしな」
永倉の表情や物言いにやはり幾分と年上の人間なのだなと自覚する。
「今日みてぇに雪村君と話したりなんて出来たりするかもしれねぇしな」
「……っ」
無邪気に笑う永倉に胸が、ぎゅっと締め付けられるような気がした。それからすぐに心臓がどっどと速く血液を巡らせていくのが判った。
 千鶴は、永倉のことが好きだ。何故、と問われれば返答に困る。何から言えばいいのか判らないほど返答に困るくらいに、永倉のことが好きだ。
 今みたいに永倉の知らなかった部分を知れば知るほどにこの想いは大きくなっていく。そしてそれを止められない。
 相手が教師だということはちゃんとわかっている。この想いが永倉にとって迷惑にしかなりえないことも、そして永倉の方は自分のことをきっと『女性』としては見ていないことも。わかっている、つもりだ。
 自分も他の生徒みんなと同じ。
 だから切なくなってぎゅっと胸が苦しくなる。けれど、同時にこの人が好きだと心臓が早鐘を打つのだ。
「そう、ですね」
少し頑張ってそう言葉を紡ぐ。
 私も、先生とお話し出来て嬉しいです。とは、なんでだろう。口にすることは出来なかった。
「新八ィ!!」
ガラッと少し遠くから声が聞こえた。
「げ。土方さん」
職員室に戻らない永倉を探しに来たのだろう。慌てた様子で新八は手にしていた本を閉じ、そしてそれを千鶴に渡した。
「読む本が決まってねぇなら読んでみろよ。結構面白かったぜ?」
読み終わったらそこに返しておいてくれ。そう書架を指差して新八は土方が入ってきた扉ではない方のもう一つの扉に書架を盾にしながら逃げるように向かっていった。そんな永倉が大人なのにやっぱり子供っぽくて千鶴は笑った。
 ついついだが、可愛いと、思ってしまった。
(やっぱり私)
先生が好き。
 手渡された本に目を落とす。やっぱり知らないタイトルだ。けれどその著者は千鶴でも知っているような有名な作家のものだった。
「…………」
席に戻って表紙を開く。びっしりと並ぶ活字に少ししり込みしたが、永倉の感じたそれを自分も感じてみたくて千鶴は本に向き合った。
 さっきまで天気につられて気分も暗くなってしまっていたのに。永倉と話をした雨上がりのような気持ちになっていた。
「よし」
軽く意気込んで本を読み始める。きっと読むのにかなり時間が必要になるだろう。
 窓の外の雨はまだやみそうもない。この本を読む時間はまだ、それなりにありそうだった。

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