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その自覚まるでなし

「いや、しかしよ。まさかこうなるとは思ってもみなかったな」
千鶴に淹れてもらった茶を飲みながら、しみじみとそう原田が言った。そんな原田に持って来た茶の盆を抱きしめながら千鶴は答える。
「私もです。原田さんと永倉さんが新選組を出るなんて思いもしませんでした」
江戸にあるとある屋敷。原田や千鶴、そして永倉は新選組を抜け、ここにいた。
 新選組脱退に関しては色々あったのだとしか言いようがない。
鳥羽伏見の戦い以降、新選組の敗戦は酷いものである。小勢力であったはずの新政府(薩長)軍に新型の武器でいいように追い込まれ幕府軍には開戦当初のような勢いはない。また、鳥羽伏見の戦いで多くの隊士を亡くした新選組も続く戦いのために集めた隊士はもはやこれまでの隊士とは違う烏合の衆である。加えて――特にこれが二人の新選組脱退の大きな要因なのだが、大名という地位を戴いてからの近藤にどうしても疑念を抱いてしまう。
新選組、その前身である『壬生浪士組』は上下などない対等な『同志』の集まりだった。無論、指揮系統や組織としての上役や纏め役としての上下はあるがそれでも、自分達はそんな在り方ではなかったはずだ。ところが、正式に会津藩のお預かりとなり時を経て幕府の完全な一組織となってからの近藤はどうだろう。無論、武士として振る舞うことは大事なことだ。身分問わず集まった、悪い言い方をするなら『何処の馬の骨とも知れぬ連中』を纏め上げるためにはその組織の長としての威厳というものはどうしても必要になる。それに近藤の立場は幕府の人間とも相対する重要な立場である。何らかの交渉の際、その態度や姿で侮られるようなことがあると困るのだ。そうであるから、立場有る武士の振る舞いを近藤がしなければならなかったのであるのも理解出来る。
 だが、最近の近藤はどうだろう? かつて憧れた地位を手に入れて近藤は変わってしまったのだろうか?
 名誉と、その忠義のために武士は命を散らすのだという。どんな過酷な命令もこなし、その命を捨てるのだ。名を惜しんでこそ、命は惜しまないものだ。近藤はそう言っていた。近藤の武士にとって正しいそれが原田や永倉にはついて行けなかった。当然だが原田も永倉も武士としての矜持というものを持っている。
 結果として、原田と永倉は新選組と袂を分かった。戦いは続ける。けれどもう、新選組いや甲陽鎮撫隊では戦えない。そういうことだった。
 まさか、新選組を出るなんて。そう口にしておいて、本当はそうなるんじゃないかという予感はあった。原田はともかく永倉はこうした近藤の態度にかなり否定的だった。武士が心意気で戦うことは本意なのだが、忠義の名のもとに無駄な血や命を散らすのはそうではないというのが永倉である。何より、地位を得て『偉く』なってしまった近藤が何より悲しかったのではないだろうか? 千鶴はそう思うのだ。
「いや、そうじゃなくてよ」
原田は湯呑を置いて原田は言う。
「まさか、新八がお前を、なぁ」
そう言われて千鶴は顔がかぁっと赤くなるのを感じた。
「原田さん、それは」
「違うのか?」
さらりという原田に困ってしまう。
「違います……」
盆で口元を隠しながらもごもごと千鶴は答えた。
「わ、私が強引についてきたんです……」
原田には千鶴の永倉に対する思いを知られている。正確なことを言うと察してしまわれていた。いつ頃だったか。自覚したのもつい最近、新選組を出る直前に自覚したこの恋心を原田はだいぶ前から知っていたという。本人にその自覚がまるでないのに知ってるなんてすごいとしか言いようがないが、原田はそれとなく千鶴を支援してくれている。
 原田は永倉が千鶴を連れて新選組を出たと思っているようだが、千鶴は自分が無理矢理ついてきたと思っている。鳥羽伏見の戦いで致命傷を負い、井上の手で羅刹になった永倉をそのまま行かせることは出来なかった。足手纏いかもしれない。それでも千鶴は永倉と一緒にいたかったのだ。別れを言いに来たであろう永倉に「行きましょう」と千鶴は言った。先手を打たれて永倉は驚いていたし、千鶴も自分にこんな積極的な行動が出来たのだと驚いていた。了承を取るように永倉は「危険だぞ」と言った。永倉が行くのはやはり戦場だ。今度は何処の後ろ盾もない部隊で戦うことになるのだろう。だが、そんなものは本当のところもう関係ない。戦いを続けていく以上、新選組は最前線にいるのだ。何処にいても同じである。それに千鶴の当初の目的であった父・雪村綱道探しも最悪の形で決着がつき、千鶴に新選組を頼る必要はなく、また新選組も千鶴を拘束する理由はなくなった。だから千鶴は自分のいる場所を自分で決めたのである。
『永倉さんが守ってくださるのでしょう?』
と悪戯っぽく笑うと。困ったように苦笑して、それから「じゃあ、行こうぜ」と永倉はその手を差し出してくれた。
 そうして千鶴は今、ここにいるのだ。
 原田は千鶴が永倉のことを想っていることを不思議には思わないらしい。新選組を出る前にまず平助のところに行ったのだが開口一番に言われた言葉が「よりによってなんで新八っつあん!?」だった。次に斎藤に言えば「お前は本当にそれでいいのか」であったし、別の屋敷にいる沖田に挨拶した時などは少し驚いた表情を見せた後「君が後悔しないんだったら良いんじゃない?」だった。誰に言っても驚かれる中、唯一「それはよかったです」と言ってくれたのは島田ぐらいだったと思う。
 しかし千鶴は別に永倉とそういう関係になったわけではない。永倉から一度もそういうことを言われたことなどないし、千鶴も永倉に己の気持ちを告げたことなどない。
原田もそれは判っているのだろう。
 しかし、何故「新八がお前を」と言ったのだろうか。原田から見て自分は女としてそんなに魅力がないだろうか?
「お前に問題があるんじゃなくてだな」
千鶴の胸の内を察したのだろう。原田が苦笑しながらそう言って、考えるように一呼吸おいてから続けた。
「新八は、きっとずっと誰も好きになんてならないと思ってたからよ」
どういう意味なのだろう。千鶴には原田の言う言葉の意味が解らなかった。
「あいつは、武士の生まれだからな。しかも俺みたいな中間(ある時は農民である時は武士という待遇の身分)でもなければ平助みたいな浪人でもない。それこそ近藤さんが憧れていたそこそこの武士の家系の生まれだ」
あいつ、ああ見えて結構なお坊ちゃまだったんだぜ? と笑いながら原田は言った。けれど考えてみれば永倉の知識やものの考え方というのはそれなりの教育を受けていなければ修得出来るものではない。原田の言うことが確かなら、それはそれで納得のいくことである。
「お前もどっかで聞いて知ってると思うが、武士にとって結婚なんてのは自分の恋愛感情なんてものでやることじゃない。家を存続させるためのもンだ。それに当人達の感情は関係ない。結婚相手は親や上司が勝手に連れてきて、別に好いているわけでもねぇのに結ばれて子供が生まれて家が続いていく。そういうもんだ。だから――ま、これは推測でしかねぇが、新八は自分が『誰かを好きになる』なんて考えたことなかったんじゃねぇかと俺は思う。誰かを好きになったって、いつかは別れなきゃなんねぇしそこに果たして意味があるのか……それだけじゃねぇことをあいつは知らないまま学ばないまま大人になって今更どうしていいのか判ってねぇんだと……俺は思うぜ」
原田が淡々とそう永倉のことを言うのを千鶴は黙って聞いていた。原田が永倉のことをそんな風に語るなど……平助が羅刹化して暫く経ったあの夜以来かもしれない。
「そんなあいつがその誰かを選んだなんてな。しかもそれがお前なんだから」
それだけお前はイイ女ってことだよ。原田はそう千鶴に言う。
 本当にそうだろうか? 自分は永倉に想ってもらえて、守ってもらうに足る存在なのだろうか? いまだにそれは自信が持てずにいる。
「あいつはお前に対して色々と鈍かったり、安全なとこで待たせようとするかもしれねぇが、お前は多少強引でも強気でいけよ。あいつを待ってちゃ駄目だ。いつまでも待ってたってあいつは来やしねぇ。寧ろお前が引っ張ってやれ。多分それで丁度良いんだろうよ」
原田の言葉に千鶴はすぐに返事を返すことは出来なかった。けれど、その言葉を反芻し、飲み込んで。それから微笑みながら「はい」と穏やかに返事を返した。
 それはそれとして
「ですから! 私が一方的にお慕いしているだけで永倉さんが私を想っているとかそういうことは違いますよ!?」
ハッとしてそこだけは否定した。本人にそんな言葉をもらったことなんてないのに勝手にそういうことには出来ない。慌てる千鶴に原田は笑いながら「まぁ、そういうことにしてやるよ」と置いていた湯呑を手に取り、もう一度口をつけた。


□■□


 やれやれだ。原田はそう胸中で呟いた。まさかあそこまで否定されるとは、いやはや思わなかった。
(新八も新八だが千鶴も千鶴だな)
千鶴には言わなかったが、原田は新八にも似たような言葉を投げていた。

 お前が誰かを好きになるなんてな。

 しかもそれが千鶴で、千鶴もお前が好きだなんてよ。そう言うと新八がお前は何を言っているんだと言わんばかりの表情で返事を返した。
 新八が新選組を出ると近藤と話をつけ、原田もまた新八とともに行くことを決めたその夜のことである。新たな門出を祝う……というわけでもないが二人で飲んでいる時に原田は新八に千鶴とのことを話した。正直なところ、原田も他の面々と同じで気付いたその時は「何故に新八なんだ?」と思ったものである。しかし、新八の人柄は理解しているし、この二人を見ていると意外に似合いの二人なのではないかと正直思った。新八は千鶴を大事に想っているし、千鶴も新八を慕っている。これならお互いに幸せになれるのではないかとそう思っている。
 だというのに新八はそんなことはないという。千鶴が大切な妹分なのは本当だし、これからも守ってやりたいのは本当だが、かといってそれが恋情や愛情かと問われれば違うという。だが、原田から見れば新八が気付いていないだけで新八が千鶴を他の何よりも大事にしているのは明白だった。新八は人に執着しない。狙ってた芸妓がいたとしてフラれたらその日は違っても次の日にはあっさりとしたものだ。原田が知る限り、新八が人で執着したのは近藤や土方、総司や斎藤・平助といった試衛館時代からの面子もしくは……芹沢鴨くらいのものである。そんな新八があんなに甲斐甲斐しく、しかも本人が望んだといっても激戦になるであろう自分達の次の戦場に女性である千鶴を連れて行くだろうか。
 何より。新八はまだ一言も口にしていないが、この世で何よりも――おそらくは剣と同率で大切なものであったはずのそれを千鶴のために既に捨てていることなど原田は知っているのだ。新八は何も言わなかったし、千鶴だって何も言わなかった。だが、そうであることは二人の所作を見ていれば気付けることだ。
「死んでも羅刹にはならない」「羅刹になるくらいなら武士として死を選ぶ」と豪語していた男が簡単にその矜持を捨てて変若水に手を伸ばすかといえばそれだけはありえない。ならば、そうする必然が二人、特に千鶴に起こったに違いないのだ。
 これから先も新八はこのことを口外しないだろう。だがそうまでして千鶴を守ろうとする時点で、これが愛情ではなくなんだというのだ。
 新八は鈍すぎる。鈍いどころの騒ぎではない。自分の気持ちというものにちゃんと自覚がある千鶴の方が幾分かマシだ。
 この状態で二人をくっつけてやろうにも、どうしようもない。傍から見ているしか出来ない原田には非常にむず痒いが、まぁそれもこの二人ならなんとかなるだろう。いや、なって欲しい。
「ま、前途多難だろうがな」
そう呟いてふと見ると中庭で話す新八と千鶴の姿が見えた。二人とも恋仲と呼ぶには難しいが、それでも二人でいるのが当然のような幸せそうな表情だ。
 そんな二人に何処か寂しさを覚えながら。それでも幸せであるようにと。原田は願ってやまなかった。

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