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幸せのエイリアス

「新八さん遅いなぁ」
時計を見上げ、千鶴はぽつりと呟いた。時計の針はそろそろ次の日を刻もうとしている。結婚してから数ヶ月、新八の帰りがこんなに遅くなるのは初めてのことだ。
 今日は大学の同期と久し振りに飲むと言って家を後にした。同期と言っても学部の同期ということらしく親友の原田とは一緒ではないらしい。
 あまり遅くならないように~などと言っていたくせに当の新八はまだ帰ってこない。千鶴はもう既に夕飯を済ませ、お湯も浴びてパジャマ姿でいる。
 帰ってくるまで起きていたい。「おかえりなさい」を言って、それから少し話をして、一緒に布団に入りたいと思っているのに。
「…………」
新八が、帰ってこない。
(大学の同期、かぁ)
大学時代、同じ学部に通っていた友人が千鶴にもちゃんといたが今はあまり交流はない。それよりも昔からの友人である鈴鹿千やその義妹の小鈴と遊ぶことが多かった。それでもまだ未婚である二人は仕事をしているので時間が合わず、最近は偶に会うぐらいしか出来なくなっている。
「お千ちゃん、まだ起きてるかな?」
電話してみようか。そう思ったがやめた。学生の頃はこんな夜更けでも電話でおしゃべりをしていたが、社会人となった今は仕事をしている千のことを考えてなるべく控えるようにしているのだ。
 けれど日中と違って、夜に部屋に一人でいるとどうしても寂しい気持ちになってしまう。寂しさまぎれにテレビをつけてみてもそれは変わらなかった。
「はぁ……」
ため息を吐く。寂しいなんて思ったのは本当に久し振りのことだ。一緒にいると賑やかな連れ合いはこんなに遅くまで自分を一人にしたことなどなかったから。
 何か飲もうかな。そう思って冷蔵庫へ足を向け、扉を開く。整頓されている庫内の麦茶の入ったポットを取ろうとしてそれが目に入った。
「あ……」
桃味のチューハイの缶だ。「たまには千鶴ちゃんも一緒に飲もうぜ」なんて言って新八が買ってきてずっとそのままだったものだ。あまり酒の得意でない千鶴はだいぶ前にこれが冷蔵庫に入ったというのに今まで飲まず仕舞いだったのである。
 いつか新八と一緒に。そう思っていた。
 千鶴は缶チューハイに手を伸ばし扉を閉める。そしてリビングに戻ってソファに座った。
 私もお酒を飲んでみようか。そんな気持ちになった。酔ってしまえばこの寂しい気持ちも少しは和らぐだろうか。
 缶のプルタブを開ける。
「……っ」
そして少しの間缶を見つめてから、千鶴は缶に口をつけた。ぐいっと、一気にチューハイの飲み込んだ。
 桃味の甘さの後から酒独特の苦味が口の中に広がる。毎度思うが、まるでジュースみたいなのにやはりジュースとは違う。高校生になって初めての夏休み、みんなでプールに行った時ノンアルコールカクテルを飲んだことがあるが、あれとは全くの別の物だ。
「っ、は」
美味しい、のかは正直わからない。それが喉を通るとかぁっと熱くなるような、そんな感じがした。
「あー……」
ふわふわする。酒を飲むといつもこうだ。
「ふふっ」
それがなんだかおかしくなって千鶴は笑った。
 千鶴が酒を苦手とする所以だった。ほんの少しの酒でも、千鶴は酔ってしまう。だから千鶴は自分から進んで酒を飲もうとはしないのだ。飲む時はいつも誰かに、たいていは連れ合いかその親友である千鶴の担任か。もしくは、千に勧められてかしか嗜まない。
 なのに今日は千鶴は自分から酒に手を伸ばした。一人で酒に手を出すのは初めてだった。
「ふふっ、うふふ」
何故だろう。別に咎められることでも何でもないのに不思議となんだか悪いことをしているような気分になった。
「ふふふっ」
もう一口、チューハイを口にして千鶴はまた笑った。
(こらー、新八さん。早く帰ってこないと千鶴ちゃんは旦那さんがいない間にお酒を飲んじゃう悪い子になっちゃうぞ)
ふわふわとした思考のままで千鶴はそんなことを思った。
 もう一口、もう一口。千鶴は酒を口にする。ふわふわとした罪悪感めいた何かが浮かぶが
(でもそれをさせているのは新八さん。新八さんが私に寂しい思いをさせるのがいけないんですよー)
そんな風にやはりふわふわと考えていた。
(あははー。楽しいー)
今なら、何でも出来るような。そんな気がしていた。
「そうだー」
千鶴は立ち上がって、布団まで歩いていく。枕元には朝まで新八が着ていたスウェットが畳まれていた。
 新八を困らせてやる。千鶴は着ていたパジャマを脱ぎ新八のスウェットに袖を通した。
「えへへ~。これで新八さんは今日寝るときに着るものはありませんからね~」
にこにこと笑って明らかにぶかぶかのそれを纏って布団に転がった。
 新八の匂いがする。
 スンスンとそれを嗅ぎながら千鶴は笑う。
「新八さん……」
ふわふわとした気持ちで、新八の匂いに包まって目を閉じた。新八が傍にいるかのように思えた。
 けれど。
「新八さんの……ばかぁ」
そんなものは幻で、自分は今独りなのだ。
 酒なんかで寂しさがまぎれるなんて嘘だ。そう、千鶴は思った。
「しんぱちさん……」
そのまま目を閉じる。そしてスースーと寝息を立てて千鶴は眠りに就いた。


□■□


「やっべ……遅くなっちまった」
頬を少し紅くしながら、しかし内情は青ざめながら新八は呟いた。「早く帰る」などと言っておきながら、実際は予想だにしないほど遅くなってしまった。こんなことで怒る彼女ではないと思うが、流石に良心が痛む。
 今日は大学時代の同期の面々と久し振りに会ってきた。大学の同期といえば親友である左之助もそうだが、彼とは学部が違うため今日は一緒ではない。
 本当に少し会って帰るつもりだった。だが、久し振りに会ったこともありお互いの近況やら何やらを話しているうちに気がついたらこんな時間である。
 だいたい携帯だって持っているのだ。一言連絡も入れておけばよかったものをうっかり忘れていたのだから始末が悪い。
 こんな時左之助がいればそういうところにも気を配ってくれるのだが、いないものは仕方がない。
「お、怒ってねぇよな?」
希望的観測を持ちながら家路を急ぐ。新居であるマンションに入ってエレベーターのボタンを押したが、気が急いて階段を駆け上がった。全速力で部屋の前まで行き、恐る恐る玄関のベルを鳴らした。
「…………あれ?」
ちゃんと押しているが反応がない。もう一度押すが、やはり内側からアクションは何もなかった。
 やっぱり怒ってるのか。半ば慌てた様子でポケットから鍵を探り出し開錠する。部屋には灯りがともったままでシンと静まり返っている。
「た、ただいまー……」
そう声をかけたが返事はない。
 玄関の鍵を閉め、恐る恐る中へ進む。
「千鶴ちゃん?」
そろりとリビングに出るが、そこにいるはずの千鶴の姿はなかった。
「あれ?」
何処にいるのだろうか。先に寝てしまったのか? いや、仕事などで帰りが遅くなる場合、先に千鶴が寝ているときはちゃんと部屋を消灯してから寝ている。電気をつけっぱなしにしていることなどまずないのだ。
「ん?」
テーブルの上をよく見てみると、そこには普段目にしないものが置いてあった。
「チューハイ?」
それは以前、新八が千鶴に買ってきた缶チューハイだった。千鶴と一緒に晩酌がしたくて買ってきたのだが、彼女は酒があまり得意ではなく、結局開けられずにいたままだった。
「千鶴ちゃんが飲んだのか?」
中身は全て飲まれているわけではなく、まだ半分くらい残っている。
「千鶴ちゃーん?」
もう一度声をかける。やはり返事はない。
 新八は寝室の方へと足を向けた。どちらにしろ着替えもしなければならない。枕元に部屋着にしているスウェットが置いてあるはずだ。
「……あ」
そこで新八は漸く探していた彼女を見つけた。
 彼女の身体には大きすぎるスウェットでその身体を包んで、千鶴は布団も被らずに眠っている。心なしかその頬が赤らんでいるようだった。
 そして、目元も。
「あー……」
ガシガシと頭を掻く。まったく。自分は何をしているのか。
「ずっと、待っててくれたのか」
千鶴の柔らかい黒髪に触れながら呟く。だいぶ年下のこの妻はどういう気持ちで彼女らしからぬ行動を取ったのだろう。
「ごめんな」
頬に手で触れて、新八は詫びた。
「……このままじゃ風邪引くな」
季節的にだいぶ暖かくなってきているし、空調もちゃんとしている。だが、やはり朝方はまだ寒いしちゃんと布団を被らなければ風邪を引いてしまうかもしれない。
 新八は千鶴を抱き上げた。相変わらず千鶴の身体は軽かった。
(千鶴ちゃん、なんか甘い香りがすんな)
千鶴に触れるとき、時折こんな甘い――そう林檎の香りがした。最初、それがどうしてかわからなくてきっと千鶴だからこんなにいい匂いがするのだと思っていた。それが彼女の使っているシャンプーの香りだと気づいたのは千鶴と結婚して一緒に暮らし始めてからだ。
 彼女を寝かせて布団をかけてやる。
「俺も着替えねぇと」
ひとまずリビングへ戻りつけっぱなしの灯りを消した。千鶴が眠っているから寝室の電気をつけられないが、常夜灯のおかげで全く見えないわけではなかった。朝着ていたスウェットは千鶴が着ているので、新八はクローゼットにしまっているものを出さなくてはならない。確か下の衣装ケース入っているはずだ。
 着ていた服を脱ぎながら引き出しを開けしまわれているそれを出そうとする。だが
「え?」
あるはずのそれがない。
「やべ、そういや」
昨日の夜、うっかり汚してしまって洗濯に出したのを思い出す。千鶴が洗ってくれているはずだが、天候の所為かまだ乾いてはいないようだ。
 今日はこのまま寝るしかなさそうである。
 新八はそのまま下着一枚のままで千鶴の隣に入った。
「ただいま」
眠っている千鶴にそう言う。そして千鶴を抱きしめた。
「ごめんな」
そう千鶴に詫びる。そして目を閉じる。
 千鶴からはやっぱり甘い香りがした。それを感じながら新八も眠りへと落ちていった。


□■□


 翌朝。
「……」
ゆっくりと千鶴は目を覚ました。
 昨日のことを思い出そうとする。新八の帰りがあまりにも遅く、思い立って自分も酒を飲んでみよう。そう思った。そこまでははっきりと覚えている。
 けれど、酒を飲んだらなんだかふわふわっとして、寂しい気持ちにさせている張本人である新八をなんだか困らせたい気持ちになって、それから悪戯心に新八のスウェットを着て……。
 そのまま眠った。掻い摘んでだが確かそんな感じだったと思う。
 新八はあれから帰ってきたのだろうか。まだ帰ってきてなかったらどうしよう。立場的には怒っていいはずだ。だが、そんなことで怒って度量のない女だと思われたらどうしようとも思う。たかだかそんなことで新八と喧嘩などしたくはない。
(そろそろ起きなきゃ)
窓の外が明るく、既に日が昇っていることを示していた。
(あれ?)
身体を起こそうとして漸くそれに気づいた。
「えっ?」
目の前に新八がいた。しかもその体躯は下着一枚のままで千鶴を抱きしめたまま眠っている。
「え? え??」
心臓が早鐘を打つ。何故そんな恰好で? 空調は利かせているし布団を被っているとはいえそんな恰好では風邪を引く――ではなくて! そもそもいつの間に帰ってきたのだろう。
「新八さん、新八さん」
流石にそのままにしておくのはどうかと思い、新八を起こそうとする。しかし身体を揺すっても新八は起きる気配を見せなかった。それどころか更にぎゅっと千鶴を抱き締めるものだから、必然、千鶴は新八に密着する形になった。
「もう……」
諦めて千鶴は脱力した。
「待ってたんですよ?」
その胸板に顔を埋めて擦りつける。少しアルコールの匂いが残っているが、紛れもなく新八の匂いがした。
「おかえりなさい。新八さん」
温かい。新八の体温に安心感を覚えて千鶴は目を閉じた。そして、もう一度。今度は欲しかった温もりに包まれて。もう暫く、そう、新八が起きるくらいまでこの温もりの中に居ようと。千鶴はそう思ったのだった。

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