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覚醒の無意識

 思えば、過去に数度。新八は千鶴と共に剣の稽古をしたことがある。

 そもそも隊士連中の間でも新八の剣の稽古はまさに地獄のようなシゴキであると評判だ。そこをどうにか逃げ出す……いややり過ごすか割と真剣に考えている者もいるくらいには酷い。稽古をつけている本人はまるで無自覚で、恐らくは「自分だってやれているから周りだって大丈夫だろう」などという程度なのだろうがつけられている面々にはたまったものではない。
 だというのに、千鶴はそんな正規の隊士達でも音を上げる新八の稽古に付き合っている。無論、新八なりに手加減はしているが所詮『新八の』手加減だ。気づいた時にはもう遅く、かなり力を入れた稽古になっているのがいつものことである。女子だというのに道場に両手を広げて転がるまでに疲弊した千鶴の様にはっとして謝るが、千鶴はいつも必ず「稽古をつけてくださりありがとうございました」と微笑んだ。そんな千鶴になんとも申し訳ない気分にはなるものの、剣術は新八が何物をもほっぽり出してしまえるほどに命を懸けているものだ。結局のところ毎回毎回、ついやり過ぎては謝りやり過ぎては謝りを繰り返すそんな感じである。

 そんなある日のことだった。縁側に座ってやたらとため息を吐く平助を見かけて新八は声をかけた。嫌な相手に見つかったと平助は逃げようとしたがそれを逃がす新八ではない。しかも丁度新八の隣には左之助の姿もあり、二人で平助の話を聞くことにした。
 話したくなさそうに、しかしぽつりと平助の口から飛び出たのは新八にも左之助にも信じられないような言葉だった。
「千鶴に、負けた」
何で。訊き返すと平助は心底情けなさそうに言った。
「剣の稽古で千鶴に負けた」
涙目で悔しいというのが目に見えて判る表情かおだった。
 新八には信じられなかった。いや、左之助もそうだっただろう。いくらなんでもありえない。
 相手はあの千鶴である。女子で、孅く、守ってやらなければならないあの千鶴なのだ。
 だというのに平助は負けたというのか。仮にも試衛館四天王の一人と謳われた藤堂平助とあろう者が。
「お前、千鶴相手だからって油断したか手ェ抜いてたんだろ」
そう軽く左之助が言う。すると平助は
「違ぇよ。そんなんじゃねぇって」
と更に眦に涙を滲ませた。
「確かに千鶴は女だし本気でやって怪我させたら嫌だって思ったからちゃんと手加減しようと思ってたんだ。でも実際やってみたらその辺の隊士と比べたら太刀筋もしっかりしてるし気迫もあって、俺もついその気になっちゃったんだ。そしたら急に千鶴の打ち込みが強くなって、それに驚いてたら」
「負けた。ってことか」
左之助に言われ、平助はがっくりと項垂れた。
 無理もない。おそらくはまぐれだろうが千鶴に負けてしまったのだ。腕に覚えがあるだけに、その衝撃も大きくて然るべきである。
「けど、なんだったんだろ。ほんと、千鶴じゃありえない力だったっていうかまるで……」
ちらりと新八を見て平助は言った。
「新八っつあん、最近千鶴に稽古つけてやってるって聞いたけど、変な打ち方とか教えてんじゃねぇの?」
言い掛かりをつけられて新八は反論した。
「馬鹿言え。基本を疎かにするような教え方する訳ねぇだろうが。だいたい、千鶴ちゃんだぜ? 千鶴ちゃん。千鶴ちゃんがどんなに力込めようがそんなんで驚くようじゃ平助、お前の力がその程度って話だろ」
「言ったな!」
今にも取っ組み合いになりそうな空気である。だが、二人の頭に拳骨を振り下ろして左之助がそれを止めた。
「馬鹿かお前ら。んなことで喧嘩すんな」
「いや、先に手ェ出したのお前だからな」
「ほんと左之さん手ェ早ぇえ」
頭を抑えて悶絶しながら二人は言った。
 結局その話はそこでお開きになった。
「でもアレを食らったら二人とも俺と同じ気持ちになるって。負け惜しみとかそんなんじゃなくってさ」
そう言った平助の言葉を、新八はその時そこまで真面目に聞いてはいなかった。

 それからしばらくして。新八は千鶴を稽古に誘った。千鶴も掃除やらが一段落ついたのだろう。快くそれに応じてくれた。
 竹刀を持って向き合い、礼をして構える。千鶴はいつも稽古するように真っ直ぐに新八に打ち込んできた。それを新八が軽くいなす。だがそれにめげずに千鶴はまた一打また一打と打ち込みをやめなかった。
 いい負けん気だと思った。負けん気だけではない。千鶴の成長には目を見張るものがある。
 これで男でないのが勿体ない、と意図せず残念に思えてしまえるくらいには。
 そんな千鶴を相手にしているのだ。血が騒がないわけがない。新八の顔に自然と笑みが浮かんでいた。
 鍔迫り合いから間合いを取って、そろそろ千鶴も限界だろうと思った一瞬。
「……は?」
千鶴の栗色の瞳が黄金色に輝いた気がした。その次の衝撃だった。
「やああああああッ!!」
気迫と共に千鶴から放たれた一閃に新八は度肝を抜かれた。
(何――ッ!!)
少女が放ったものとは到底思えない力だった。それも一撃だけじゃない。二打三打と千鶴は竹刀を打ち込んでくる。
「チッ!」
しかも速い。唐突な千鶴の変貌に新八は顔を顰めた。
 平助が言っていたのはこれだったのだろうか。
(ちとヤベェか)
痲れるほどの剣戟に、それでもやはり先程とは違う笑みが浮かぶ。これを楽しいと思えてしまえる自分は、やはりどうしようもない剣術馬鹿に違いなかった。
(悪ィな、千鶴ちゃん)
良くも悪くも千鶴の打ち込みは真っ直ぐだ。それを捌いて打ち返す。それでこの稽古はお終いだ。
「はあッ」
千鶴の打ち込みに合わせて動こうとした時だった。
「きゃっ!」
千鶴が転んだ。
「うおっ」
予想外の動きに、千鶴を支えようとして新八も倒れた。
「痛てて……千鶴ちゃん大丈夫か?」
上半身を起こして硬直する。千鶴は新八に重なるように倒れていて、丁度新八の胸元に顔がぴったりと寄せられていた。
 内心で、呻いた。
 上気して紅くなった頬、荒い吐息、汗に濡れて艶めいた黒髪……そのどれもがいやに煽情的に見えた。
「ち、千鶴ちゃん……」
心臓がドッドッドッと血液を運ぶ音が聞こえた気がした。彼女に聞こえてやしないかと焦ってしまう。
 ごくりと、生唾を飲み込んだ。
「ご、ごめ、なさ……」
肩で息をしながら謝る千鶴の様子に、体力の限界が来たのだと悟った。
「大丈夫。気にすんな」
ポンポンと背中を叩いてやりながら、新八も自分自身の呼吸を整えた。
(やべー)
仮にも預かりもの、妹分と可愛いがっている千鶴に危うく変な気を起こしかけたと反省しながらもう一度千鶴を見る。
「……」
千鶴は肩を上下させながら新八に身体を預けていて、新八は思わず道場の天井を見上げていた。

 あれからまた更に時間が過ぎた。
 新しい時代が訪れ、刀を腰に差すことが許されない時代になったが、新八は剣を置くことはなかった。道場で剣術を教える毎日が今の新八の日々である。
 その傍らには千鶴の姿があって、あの頃とは違う彼女本来の出で立ちで共にいてくれている。
 今にして思えば。あれは鬼としての千鶴の力が一時目覚めようとしていたのではないかと思う。火事場のなんとやらではないが、千鶴の気迫に呼応してほんの少し鬼としての力が出た結果なのだと新八はそう考えている。
「たまにはおまえさんも振ってみるか?」
そう新八が言うと千鶴はもういいですとそう答えた。
「こんな格好では新八さんと打ち合えません。それに私なんかじゃお相手になりませんし」
「けど、あん時のおまえさん。なかなかいい打ち込みしてたぜ? いや、危なかった危なかった。危うく負けちまうかと思ったぜ」
またそんなこと言って。そう千鶴は言うが本当のことだ。
「だからやろうぜ? ちゃんと手加減すっからよ」
「そう言って新八さん、結局手加減してくれませんでしたよね」
そう言われて、新八は目を逸らした。
「それに私が鬼だとわかってからは特に」
ぷぅと膨れながら千鶴は言う。
 あれから程なくして、千鶴が人間ではなく鬼という生き物だと知らされた。かといって千鶴が千鶴でなくなるわけがなかったし、新八にとって千鶴は大事な妹分だった。けれども、千鶴が鬼だとわかってから以降、新八が千鶴との稽古でそれまで以上に手を抜くことはなかった。
「私が新八さんに敵うはずないのに」
それは千鶴の思い込みだ。千鶴が鬼として本気を出せばあの場にいる隊士全員――斎藤や総司だったとしても千鶴に勝てるか難しかったに違いない。
「そんなに負けたくなかったんですか?」
千鶴がそう訊いて、新八は「当たり前だろ」と答えた。
「守ってやりたいと思ってるヤツに負けちまったら……やっぱ男として立つ瀬がねぇよ」
それを聞いて千鶴が続けて訊いた。
「じゃあ、あの頃から。新八さんは私を守りたいって思ってくださってたんですか?」
真っ直ぐな眼差しで訊く千鶴の言葉に図星を突かれた気分がした。
「新八さん……?」
「さ、さーて。素振りでもしてくっかな」
誤魔化すように千鶴に背を向けて新八はその場から逃げた。

 千鶴に言われたとおり、新八はあの頃だってその前からだって千鶴を守ってやりたいと思っていた。けれどそれはあくまでも『妹分』としてそう思っていただけだ。けれど、その意味が変わったのはきっとあの時だ。

 当の本人は、まだ、そうだと気づいてはいなかったけれど。

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