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傷痕を辿れば月

 今年も『今年』が訪れた。


「新八さん?」

千鶴は永倉を探していた。早く走ることは出来ない。今のような着物ではあの頃のように走ることは到底無理だ。

 今の千鶴の着物は女のもののそれでーー。あの頃、そう、新選組と共にいた時のような袴でも洋装のズボンでもない。その頃、袖を通したくても叶わなかった女性の姿のものである。
 あれからどれくらいが過ぎただろうか。『懐かしい』と想い起こすにはまだ早く、しかし、あの頃は既に『過去』になってしまっている。
 あれから、千鶴は永倉と共にその道を往くことを選んだ。
 鳥羽伏見の戦の日、淀藩の侍に撃たれて死に瀕した永倉は居合わせた井上の持つ変若水で羅刹となった。
 「羅刹になるくらいなら潔く死を選ぶ」。そう言っていた永倉が羅刹となるのを千鶴は止めることが出来なかった。井上の飲ませた変若水によって羅刹と化した永倉だったが、そのことで井上や千鶴を責めたりはしなかった。どんなに酷く罵られても仕方がないと思っていたのに、永倉は千鶴との約束が守れたのだから感謝しているとそう言った。
 そんな永倉のそばに、千鶴はいたいと思った。だから、永倉が新選組を離れた時も永倉について行った。
 そこが戦場だろうと、何だろうと。
 永倉は千鶴を置いては行かなかった。伏見奉行所で指切ったあの時と同じように、千鶴が戦場にいることを許してくれた。
 永倉は剣を振るい、千鶴は隊士達の世話をする。お互いがお互いの戦場で、自分の戦い続けた。
 その最中で、千鶴の『戦い』も終わった。鬼としての、羅刹を生み出した父の子としての確執も。
 全て終わった後、永倉は松前藩に帰参した。無論、千鶴を連れてである。その時に『女』に戻れた千鶴は永倉と所帯を持ち、二人は晴れて夫婦になったのだった。
 そんな、二人が夫婦になって数度目の新年である。
 正月は雑煮食って寝るのが醍醐味だろ? なんて言っていた永倉はその言葉通り毎年正月はそんな風に過ごしていた。けれど、三日を過ぎると数日の間ひどく彼らしくなくなる。普段は快活で良く言えば賑やかな永倉が静かになるのだ。 
 その理由を千鶴は知っている。千鶴だってその数日を共に戦ったのだから。
 永倉は縁側で空を見上げていた。
 空気が、澄んでいる。
 夜空には星屑と月が浮かんでいて、いつかのあの日と同じだと、千鶴は思った。
「新八さん」
千鶴は永倉に声をかけた。
「お風邪を召されますよ」
そう言いながら隣に座る。
「いや……なんかこの時期になると思い出しちまってよ」
永倉はふっと笑って言った。
「あれから、色々あったよな」
「はい」
 まず、井上が死んだ。その次に山崎が死んだ。近藤も、土方も、それから羅刹になった平助や山南もその命を終えた。永倉と共に新選組を出た原田も人伝に死んだと聞いたし、靖兵隊の隊長であった幼馴染の芳賀も死んだ。永倉の親しい面々はその多くがあの幕末で命を落としている。千鶴にしても、義父である綱道を亡くした。
「本当なら、俺もここにゃいなかったんだよな」
本来なら傷痕があるであろう何も無いそこに触れながら新八は言った。千鶴にはその言葉が痛い。辛そうな千鶴にそんな顔するなと永倉は言った。
「けどよ、生きてるから今がある。だろ?」 
千鶴の頭をポンポンと叩きながら永倉は続ける。
「ま、聞いた話じゃ斎藤も島田も元気にやってるみてぇだし。相馬だって生きてたしで辛気臭いことばかりじゃねぇからな。左之だって死んだ死んだとか言われておきながらしれっと顔でも見せに来るかもしれねぇしな」
なんせ腹詰めても死なねぇ男だからな。そう言って永倉が笑うと、なんだか本当にそうなるような気がして千鶴も笑った。
「そうですね」
当時は本当に、色々なことがあった。辛いことや悲しいことで一杯だった。そんな最中で永倉のこの明るさに何度も救われてきた。彼に――守られてきた。そんな自分はなんて幸せなのだろうと、千鶴はそう思っている。
「にしても、本当に冷えるな。そろそろ部屋に戻るか」
ぶるっと身体を震わせて立ち上がった永倉にふと思い出したように永倉を呼んだ。
「兄上様」
千鶴の言葉に驚いたのだろう。永倉がきょとんとした表情を見せた。
「へ?」
「一度、呼んでみてほしいと仰ってましたよね?」
平助が新選組を出て御陵衛士になった直後のことだ。そういえばあの日も月が出ていたのをなんとなく思い出した。変わっていく新選組に葛藤する永倉が月下で剣を振っていた。あの時はまだ桜の季節で、夜桜から舞い散る桜と永倉の鋒が月で照らし出されてそれは哀しいくらい美しかったのを千鶴は忘れられない。
「兄上様」
そんな風に呼ぶ千鶴に永倉は明らかに困ったような表情を見せた。
「もう一度お呼びしましょうか?」
くすっと笑って千鶴が言う。すると永倉は「あのなぁ」と窘めるように言った。 「今更そう呼ばれても嬉しくねぇよ」
がしがしと頭を掻き毟りながら永倉は言う。
「もう、おまえさんのことは『妹』なんて思えねぇし、な」
そう言った永倉の頬が少し赤い。
 ほんの悪戯心だったのに。
「おまえさんは、俺の嫁さんだろ?」
言われて千鶴は「はい」と答えた。心底幸せそうな笑顔でそう応えて立ち上がる。
「旦那様」
そんな風に呼ぶと、永倉が千鶴の手を掴んで引き寄せる。そうすれば簡単に。千鶴の身体は永倉の腕の中に収まった。
 暖かい。温もりを感じて目を閉じる。
 あの頃、自分は冷たい闇夜の中にいたのかもしれない。知らない土地で心細くて、唯一の身寄りの父は見つからない。知らなかった自分の出自や変若水、悪化していく状況……。そんな絶望したくなるかもしれない日々でも千鶴が前を向けていたのはきっと新選組の、そして永倉のおかげだと千鶴は思っている。

 この温もりが自分を守ってくれている。

 永倉の傷痕はそんな日々の軌跡だ。目に見えるものからそうでないものまで、全て。
 永倉をぎゅっと抱き締め返して千鶴はその温もりに身を委ねた。

 あれからも、そしてこれからも。この二人を見届け続けるのは傷痕とあの月なのかもしれない。

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